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龍馬のヒミツ

http://www.373news.com/modules/nmblog/response.php?aid=172龍馬のヒミツ_e0113829_2243960.jpg龍馬のヒミツ_e0113829_2244833.jpg

 知らなかったのだけれど、高知空港の愛称は「高知龍馬空港」なのだという。橋本大二郎知事時代に命名(2003年)されたそうだ。そういえば、鹿児島県内でも龍馬とお龍(りょう)が新婚旅行にやってきた(日本初とされる)逸話にちなみ、“霧島龍馬”駅(現JR霧島温泉駅)を呼び掛ける運動もあった。また、2人がつかった霧島市の塩浸温泉はこの4月「塩浸温泉龍馬公園」として福祉・観光の複合施設が整備され、オープン予定だ。人気の坂本龍馬は、今では日本国内はもとより、海外にまで「●○龍馬会」(●○には地名が入る)が設立され、その数100をゆうに超える。鹿児島県にも鹿児島龍馬会(1/5付南風録にリンク)があり、龍馬ハネムーンウオークなどのほか、龍馬ファンの交流親睦に努めておられるようだ。

 龍馬の足跡を研究し、それらを大切にしながら町おこしや観光振興に奔走されてきた方々を取材して、ときおり“龍馬熱”にあてられるようなこともあるが、なぜこんなにも龍馬は人をひきつけるのか? どうして龍馬がことほどさように愛されるに至ったのか、ひとつ理由を探ってみたい。

 龍馬の認知度が上がったのは、ある一つの伝記小説がきっかけ。それまでは「知る人ぞ知る」的な評価でしかなかった。その発端となったのは、高知の自由民権派の新聞「土陽新聞」(高知新聞の前身)に連載された、坂崎紫瀾(しらん)の「汗血千里の駒」という坂本龍馬の生涯を描いた小説だった。明治16(1883)年のことという。同連載は当時の自由民権のうねりの中で話題を呼び、複数の出版社で単行本が出され、全国の民衆から支持された。これには日本人の判官贔屓(ほうがんびいき)があり、悲劇の死をとげた龍馬への同情も強かった。

 高度成長期、龍馬ブームを招いたのは、ほかならぬ司馬遼太郎著「竜馬がゆく」であり、それを原作とした大河ドラマや再々にわたる映像化のおかげで、現在の龍馬イメージが定着したと言える。司馬「竜馬」像は1960年代、学生運動や安保闘争にゆれる時代背景に合って、「民衆のヒーロー」として受け入れられた。これは「汗血千里の駒」が明治の自由民権ムードの高まりとともに読者に喜んで迎えられたのと(もともとは新聞連載だったことも含めて)非常によく似ている。

 小説内の龍馬は「亀山社中(のちの海援隊)結成」から「薩長同盟」「船中八策」「大政奉還」とひとりで発想し、時代を先取りして進めていった志士=活動家として描かれる。が、史実としては龍馬が活躍できたのは、ひとえに薩摩藩が支援してくれたからにほかならない。脱藩した坂本龍馬が、勝海舟から目を掛けてもらったとはいえ、一浪士という身分で船や武器を購入したり、一国の政策に影響を及ぼす活躍ができるはずもない。再々龍馬が薩摩に足を伸ばし、小松帯刀や西郷の屋敷に泊まったりしたのは単に友情からだけではない。

 個別に論考していくスペースはないのだが、一番の功績として知られている薩長同盟(慶応2〔1866〕年)それ自体が、準備は長崎で以前から進められていたことが近年の研究で明らかにされている。グラバー商会から購入した鉄砲を亀山社中を通して長州藩に(秘密裏に)流していたのだが、背後には薩摩の小松と五代友厚らがおり、龍馬は今風に言えば「“薩摩商社”のエージェント(代理人)として働いていた」ということができるだろう。お膳立てはできあがっており、前後で龍馬が貢献したことは事実と思うが、ドラマのように「龍馬の一言で決まる」なんてことは考えにくい。
(詳しくお知りになりたい方は、桐野作人著「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」=「新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬」所収=をご参照いただきたい)

 亀山社中というのは薩摩藩が「藩としておおっぴらにできないことをやってもらう」ために、お金を出して働いてもらっていた“必殺仕事人”役、というと言い過ぎか(のち、主たるスポンサーは土佐藩となり、その際に海援隊となった)。よく知られているのは西郷や小松との親しい関係であるが、龍馬はその手紙の中で大久保利通や吉井幸輔(こうすけ、のちの友実)らのことも書いており、加えて京都では、中村半次郎(のちの桐野利秋)とも密接な交友関係があった。吉井は龍馬暗殺直後、現場の近江屋に急行しており、半次郎も吉井と連絡を取り合い、海援隊士らと犯人捜しに奔走している。史実を調べれば明白なのだが、案外と知られていない。

 2月中旬、高知市で「『謎と浪漫(ロマン)と憧(あこが)れ』と本格焼酎で平成の交流」と題して、龍馬と半次郎の関係を知って交流を深めるイベントが行われたが、本紙と当HPで「さつま人国誌」連載中の桐野作人氏が講師として話されたとか。龍馬と半次郎が意気投合し、肝胆(かんたん)相照らす仲だったことは、もっと知られてもいいのではないか(大河ドラマ「龍馬伝」で、小松帯刀や中村半次郎がどう描かれるのか? ぜひ描いてほしいのだが、今のところキャスト予定もないので無理かなぁ)。

 龍馬は筆まめで、姉乙女あての手紙に霧島旅行のくだりなどあって、無邪気に楽しんでいる様子が伝わる。龍馬の魅力の一つに、こういった率直な心情をつづった「手紙」があるとの指摘もある。「日本を今一度洗濯いたし申し候」といった印象的なフレーズも、龍馬の手紙中に残されていたもので、多くの方の心をとらえて離さない秘密ではないか、と考える(参照・宮地佐一郎著「龍馬の手紙」、原口泉著「『龍馬の声』が聞こえる手紙」、竹下倫一著「龍馬の金策日記」)。

 龍馬人気には新聞小説が大きくかかわり、時代の気分や映像作品のヒットで高まってきたことは間違いない。近年は「龍馬はフリーメーソンだった」とか珍説も続出しているが、諸説紛々あって、どの程度史実を研究されたものか、マユツバの説も多いようだ。「フルベッキの集合写真」にも龍馬が写っていることになっているが、似ている別の人物(折田彦市=薩摩藩士、のち三高〔京都大学の前身〕初代校長)だと判明している。一方、まことしやかに「龍馬暗殺の黒幕に薩摩がある」という陰謀説を喧伝(けんでん)する本やサイトもあり、(「人斬り」というイメージで)半次郎が下手人にされていたりするが、これも史実に反する「ぬれぎぬ」としか言いようがない。

【写真左】霧島市牧園にある、塩浸温泉の龍馬とお龍「新婚湯治の碑」。「塩浸温泉龍馬公園」が整備中で見学できないが、4月オープン予定という

【写真右】霧島市牧園の喫茶店「霧島峠茶屋」が出す「龍馬ラテ」。この絵(ココアパウダーで描くヤツ)うまいですねぇ!
by mo_gu_sa | 2010-03-15 00:00 | 鹿児島


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