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細野透:硫化水素の地獄と極楽

建築&住宅ジャーナリスト 細野 透氏
http://www.nikkeibp.co.jp/news/biz08q3/578665/

火山に登ったとき、硫化水素の臭いが強くなったら、「ここから先に進んではいけない」という警戒信号だと受け止めなくてはならない。その先には地獄が待つ。

温泉に入ったとき、少しだけ硫化水素の臭いがし、「湯の花」が浮かんでいたら、自然の贈り物に感謝しながら身体をほぐせばいい。ここでは極楽気分を味わえる。

日本は火山国である。火山には、地獄と極楽が隣り合わせになって存在する。噴気口から吹き出た有毒ガスは植物を枯らし、人間や鳥や獣を殺傷する。その一方、地下から湧き出た火山ガスが地下水と接触すると、温泉となって人々に恵みをもたらす。

火山ガスの主成分は水蒸気だが、高温のガスには塩化水素、二酸化硫黄、低温のガスには硫化水素、二酸化炭素などが多く含まれる。

硫化水素は硫黄と水素の化合物。無色で可燃性の有毒ガスである。腐った卵のような悪臭を出す。

硫化水素の濃度は極楽と地獄を峻別する決定的な要因になる。

生と死に向き合う恐山

 日本には多くの火山がある。北海道の有珠山、岩手・宮城・秋田三県にまたがる栗駒山、長野・群馬県境の浅間山、伊豆大島の三原山、九州の阿蘇山、雲仙岳、桜島(御岳)などなどだ。

 各火山にはそれぞれの極楽と地獄があるが、人間の生と死に向き合いたいときには、青森県の恐山(おそれざん、おそれやま)を訪ねてほしい。

 火山としての恐山は下北半島の中央部に位置。カルデラ湖の宇曽利湖(うそりこ)を中心とした外輪山の総称である。

 宇曽利湖の北側に恐山菩提寺がある。死者の魂が集まる霊場として知られ、毎年7月20日~24日の大祭には、死者の言葉を伝える巫女(イタコ)の口寄せが行われる。

 日本人が一般的に持っている仏教の知識では、生者は「この世(此岸=しがん)」に住み、死者は「あの世(彼岸=ひがん)」に住む。

 この世とあの世の間には「三途の川」が流れ、その河岸は「賽(さい)の河原」と呼ばれる。川を渡ったあの世には極楽と地獄があり、因果応報の教えにしたがって、善い行いをした者は極楽に迎えられ、悪い行いをした者は地獄に落ちる。

 恐山の極楽は、なみなみと水をたたえた宇曽利湖の湖岸にある。名前は「極楽浜」。一帯は真っ白なきれいな砂浜で、湖越しに緑に包まれた外輪山が見える。

 恐山はかって136カ所から火山ガスを吹き出し、百三十六地獄と呼ばれていた。現在では、仏教の「八大地獄」になぞらえて、無限地獄、重罪地獄、血の池地獄、金掘地獄、女郎地獄、法華地獄、どうや地獄、修羅地獄という八つの地獄がある。

「賽の河原」で石を積む

 恐山で最も切ない気持ちになるのは「賽の河原」である。ここは、幼くして亡くなった子どもたちが、父や母に会いたい一心で、小石を積み上げて供養の塔をつくろうとする場所だ。

 ところが、塔が完成に近づくと、地獄の鬼が現れて、無惨にもそれを崩してしまう。塔を崩された幼児(おさなご)が、余りの悲しさに「許し給え」とふし拝むと、地蔵尊が現れて救いの手を差し伸べるのである。

 ここを訪れた父や母は、幼児の責め苦を少しでも軽くしてやるために、彼らの代わりに石を丁寧に積み上げる。
 
「地蔵和讃」

 これはこの世の事ならず
 死出の山路の裾野なる
 賽の河原の物語
 聞くにつけても哀れなる


 二つや三つや四つ五つ
 十にも足らぬ幼児が
 賽の河原に集まりて
 父恋し母恋し


 恋し恋しと泣く声は
 この世の声と事変わり
 悲しさ骨身に達すなり


 かのみどり児の所作として
 河原の石を取り集め
 一重(ひとつ)積んでは父のため
 二重積んでは母のため
 三重つんでは故里の
 兄弟わが身と回向(えこう)して


 昼は一人で遊べども
 日も入あいのその頃に
 地獄の鬼が現れて
 やれ汝ら何をする‥‥

人を悲しませるという罪

 わたしは岩手県の出身である。江戸時代の南部藩は、岩手県中北部から青森県東部を支配していた。つまり、恐山も南部藩の領地だったという縁で、小さいときから「賽の河原」の意味を知っていた。

 小学・中学・高校のどの時代だったか、また誰に質問したのだったか。記憶が定かではないが、あるとき、こう尋ねたことがある。「賽の河原では、罪がないはずの幼児たちが、なぜ、石を積み鬼に崩されるという責め苦を負わされなければならないのか」。

 その人はこう教えてくれた。「幼児たちが亡くなった原因は、病気かもしれないし事故かもしれない。確かに、亡くなり方自体には罪がない。けれども、幼児が亡くなると、父も母も兄弟姉妹も親類もみんな悲しむ。父や母を悲しませることが罪なのです」。

 幼児が成長した後でも事情は変わらない。自分より早く子どもを亡くすることは、親にとってはつらいことなのだ。

 その子どもが大人になって結婚し、家庭を持ち、子どもが生まれたとしよう。すると、新しい関係が生まれる。「父や母が亡くなると子どもが悲しい思いをする。養わなければならない子どもがいるのなら、病気であっても事故であっても亡くなることが罪なのです」。

 硫化水素による自殺の誘惑にかられたら、「賽の河原」に身を置いて、ひとつふたつと石を積んだつもりになって、悲しんでくれるだろう人に思いを馳せてほしい。

参考資料 『山と信仰 恐山』(佼成出版社、1995年)
by mo_gu_sa | 2008-07-16 15:30 | 温泉一般


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